昭和50年12月01日 月例祭



 最近お道の信心の、まぁひとつの動向と申しますか、傾向。まぁお互い一人一人の信心者の、又は教会の体質改善と言う事がいわれております。信心で言う体質改善とは、どう言う様な事を目指す事かと。私は思いますのに、おかげおかげ信心から、いうならば真の信心。いうならばおかげを頂くという信心から、信心を頂くという信心に変わらせてもらう。その信心におかげがともなうのであり、その信心に力、お徳が頂けるというおかげでなからなければならない。
 そういうふうに一つ変わって行く事が、体質改善だと思います。信心をしておかげを受けるという、それから信心を頂かせてもらうと言う事。今日佐賀から毎月、月の一日に必ずお参りになる、お二人連れがございます。空閑さんという。お願いは何時も西岡先生にお願いをされて、そしてお取次ぎを頂いて下さいと言う訳で御座いますが、色々皆さんのお話を頂いたり、おかげの泉を読ませて頂いて、もう本当に人がたまがるようなおかげを皆さんが頂いておられる。
 いうならば奇跡的なおかげを受けておられる。一遍私もあぁいうおかげが頂いてみたい。と言う訳です。だからそういうねおかげを頂いても、初めの間はない生命を助けて頂いたの、思いもかけない道が開けたというて喜んでおるけれども、そういう信心では人間の本当の幸福幸せには繋がらない。というて丁度あれは神戸の方から電話が掛っておりました。その事のお礼お届けがありました事を、まぁ聞いて頂いたんです。
 香西さんという方が、毎月月の15日の富久信会にはもうわざわざあちらから参拝されます。大変その会社の方が今困難な状態。もう毎日毎日が手形におわれておられるという状態。朝からもう何回も電話が掛って来る。ご兄弟である久留米の佐田さんの所にもお電話が掛って来る。もう今度という今度は、もうどうにも出来ないごとある。まぁ70万か、の今日は手形があるのに、まぁ後30万だけがどうでも足りないから、兄さんにお願いをして30万貸して、送ってくれないかというその電話があった。
 そりゃご兄弟として30万位で、まぁその場が立ち行くならば、もう送ってやりたいのはもう本当にやまやまでございましょうけれども、御承知のようにご神意一つで日々の信心の稽古をなさっておられる佐田さんたちの事ですから。その事をお願いなり又お伺いにみえられました。もう度々の事ですけれども、もうそれこそまぁ見事におかげだけは頂いていく。もう例えばこの香西さんなら香西、まぁ合楽で皆そんなおかげ頂いてますけれども。の事を言うただけでもね。
 神様の働きのまぁ偉大さというか、微妙さというか只本当に有り難い。もう節を拝まなければおられない、おかげを受けた時だけは。けれどももう明日は明後日は、又同じ事を繰り返しておる。私は佐田さんに、それは送ってやんなさらん方がおかげですよと、申しましたから、佐田さんも又腹を決めてお帰りになった。まだその辺におられるだろうかという頃に電話が掛って来た。
 もうあのおかげを頂いてきた時の電話は違いますもんね。もう真剣もうあもしもし親先生ですかという声聞いただけで、はぁおかげ頂いたばいのて分かる。もう本当におかげを頂いて、度々の事ながら本当に、まぁおかげを頂きましたというお礼のお届けがありました。という後で御座いましたからね、本当に例えば奇跡的なおかげを日々頂いておりましても、奇跡的なおかげのなかで、頂け続けたところでも、それは人間の本当のおかげ、幸福ということには繋がらない。
 もうこの頃の場合なんかは、やっぱり同じような事でもう大変深刻でした。その時にもう愈々ダメだというので、佐田さんの所に電話が掛って来てもう私は、神様は信じないちゅう電話が掛かって来た。信じないもなんも何時もおかげを頂いておって、例えばこれ程次々とおかげを頂いてきて、よし此処でなら倒産と言う事になっても、今までのおかげと言う事は、おかげと実感しなければいけないじゃないか。
 あぁいうおかげを頂いて来たんだからというても、いいえもう今度頂ききらんならばもう神様は信じない。神様は信心はしようごとないという電話であった。もうどんなに奇跡的なおかげを頂いても、次の難儀が起こって来て、それが自分の思う様にならなかったら、もう信心は揺るいで来るのです。というてなら今度神様が、人間のいう通りにおかげを下さる神様では決してないのですから。
 それは親神様なのですから親なのですから。子供が言うならばねいくらおやつをねだってもねだってもね、あぁそうかそうかというてやる親はない様なもんです。ですからおかげを頂くと言う事はね。それは頂かなければなりませんけれども、それに終始した信心であっては愈々詰らんのです。矢張り信心のいうならば体質改善と言う事は、その問題を通しておかげを受けると言う事は、その問題を通して力を受けていく。
 その問題を通して信心が分からせて頂くと言う事に決めなければ体質改善と言う事にはならない。そこん所をです私共は勿論、繰り返し繰り返しのおかげの中から、それを的確なものに、はっきりとしたものに身に付けていこうという姿勢をとらなければおかげにならん。そこでです信心させて頂くと、もう口を開けば改まれであり磨けである。不思議にいうならば、その問題を通して改まらせて貰う。磨かせて頂くと言う事になりますと、おかげを頂いたその暁にです。
 あの難儀な問題でです、ここを一つ改まらせて頂く事が出来た。ここを磨かせて頂く事が出来たという、おかげと同時にお礼が愈々有り難いものになって来る。その有難いというのが、又おかげを頂いて行くと言う事にならなければならんというのです。段々信心をさせて頂いておりますとね、言わば有り難うならせて頂く。おかげを受けたから有り難いというのではない、自分の心を磨いたから、改まったから有難くなる。その有難いという心でなからなければ、いかに天地のご恩徳を聞かせて貰うても。
 天地の大恩を聞かせて頂いても。分かっただけで本当にご恩徳に感激する天地のだいおんに、言わば報い祭らなければおられないという心は、生まれて参りません。だいおんが分かったというてもね。それに報いる心が生まれて来なかったら、それは分かったが分かったではないのです。信心が分かっていくというのは、そう言う事だと思う。今日は久し振りで親教会月次祭に幹三郎と、あちら祭員でおかげを頂いておりますから、一緒にお参りさせて頂きました。
 もう本当にあのあちらの御造営も見事に出来上がりつつ御座います。大体は12月の3日がご大祭ですけれども10日間延ばしてそして、お広前だけが十日すれば大体ほぼ形が整いますので、言わば新お広前でその、十三日の日にご大祭がある事になりました。もう私は今日行ってから、あちらの総代さん方からずっとご案内して頂いて本当に感動しました。もう出来上る事は出来上がったけれども、何かちゃちなもんであるとかね、と言う様な事であってはならないと、図面では素人中々分かりません。
 所が実際にほぼ出来上がったその様子を見せて頂きまして、本当に有り難いなぁ、やっぱり神様のおかげだなぁと思わずにおられないほどに、素晴らしゅう出来上がっております。今度の十三日はそちらで、ご大祭がある筈です。こちらは丁度13日会ですからまぁ御祭だけ頂いて、こちらへ帰ったら十三日会の信心研修にも参加が出来ますから。どうぞ皆さんも心具面をしといて頂たいと思います。私は月次祭の後に初めて今日はお話をあちらでさせて頂ました。
 こうして段々ご造営が、見事に段々出来ていっておる。けれども是でよいと言う事ではない。まぁ愈々おかげ頂いていかなければならんので、この御造営と共にお互い信心信奉者がそれぞれの力、まぁお年よりのお婆さんが参っておられましたから、お婆さんは力がない。言うならばお金も沢山は持っておられんだろう。ですから一つ御祈念係りで一生懸命御祈念をなさるように、お金のある人はお金で力のある人は力で御用させて貰うて、それこそ千載一遇この御造営にです。
 悔いを残さんだけのおかげを頂いておこう。丁度側に岸先生がおられましたから、岸先生が丁度40年の記念祭。私が北京から帰って翌年が40年の記念祭でした。それで40年祭を迎える一年前に、一年後の記念祭をどうしてつかえるかという話があって、その岸先生が色々な計画をしておられるのを、皆さんに聞いて貰われた。その当時はなんと記念祭が一万円で出来たんです。30年前の話ですから。
 ところが、そのまだ一年も先のことじゃけんでというごたる風な顔してから、誰もそのそれにその、動こうとする様子を見せない。まだその頃は、こちらの信心が燃えておる時でしたからね。それでその一万円まぁ一万円ぐらいで、今こそ一万円位ですそりゃ大金ですよね。そりゃもう本当に一人ででもおかげを頂きたいという念願を立てて、それからまぁ一生懸命その事に取り組ませて頂いた話をさせて頂きました。
 是はもう本当に、まぁ真心一途と自分では思うてとに角自分の体から生まれて来る、いうならば財は最低のギリギリの生活をさせて頂いて、その余分は一つ御造営費に、いやではないご祭典費にと。当時はこちらであの水石鹸ですかね。あのロウソクとか缶に入ったロウとかね、あのいうなら何ですかな。あのロウソク送電とか、閃光送電とかと言う様にもう電気が大変不自由な時分ですから、ロウソクがこの筑後地方からどんどん出たんです。それからあの水石鹸ですね。
 であぁ言う様な物がこちらへ出来ておりますから、資本はないのですからそういう物を、見本を持ってまぁ九州中ほどんど回りました。よくまぁ売れました。こちらがどんどん発送を致しました。でそれがねそりゃよかりゃよいけれども、向こうへ着いた時には水石鹸の事ですからほんな小さくなってしまっておると文句が出る。お金は払わんという返品して来ると言った様な事が相次ぎましてね、もうとにかく11月だというのに、ただ最低生活が出来るというだけで、余分なお金が全然残らない。
 もう自分はこれ程それこそ真心一途でです、今度の記念祭に思いを掛けて打ち込んでおるのに、どうした事だろうか。愈々信心が分からなくなった。親先生にお取次ぎを頂いて暫く山の中にでも籠ろうと思うた。そして天地の親神様に直談判をしようと思うた。私が真心でこの様に一生懸命になっておるのにどう言う訳あなた、おかげを下さらんのですかと言う訳なんです。
 忘れもしませんが11月の、この耳納山の中腹まで参りました時に、もうそれこそ大変な夕立でした。11月というのにそりゃ山ん中での、あの雷鳴というのはもうものすごいです。もう真っ暗に全山を揺るがす様なその雷さんでした。それから近所にありましたお滝場のこもり堂に走りこんで、そこで結局二晩過ごす事になりました。御滝の水を頂いて、ほりゃもう一生懸命大祓をあげるですね。
 他の方達は何かお不動様の真言かなんかをあげられる。私はもう高天原にでそのもう一生懸命拝ませてもろうて、神様からお知らせの一つも頂こう。又お夢ででも何かお知らせを頂こう。どこを間違うておれば神様おかげを下さらんのか。自分の事じゃない教会の事。神様の事を思うて、私はこの様に一生懸命になっておるのにどういう訳ですかと、もう後一月後には、記念祭がつかえられるのですよ。間に合いません。と言う訳です。二日目の朝方でした。お夢を頂いた。
 丁度一軒真四角もあろうかと言う様な、古い大きな井戸があるのです。その井戸から私はこうやって中をのぞかせて頂きますと、こんな大きなその井戸側いっぱいに大きな鯉がこうゆうゆうと泳いでいるので御座います。私は上からそれをのぞいてね、はぁ今度の記念祭のお供えは是だと思うた。もう心が躍って来た。そうして是が記念祭のお供えだといいながら思いながらです、その井戸の淵に立ってから私が小便をして居る所を頂いたんです。で小便し終わってしもうてから、しもうたぁと思いよる所です。
 もう不浄が掛ったんですもん。だから小便まるほどそういうお夢でした。まぁその時分に、神様から色々お知らせ頂く訳でもないですけれども、自分で考えました。こりゃ自分が記念祭記念祭というて真心一途というておりますけれども、記念祭の為に一途な思いをここに寄せておる事でしょうけれども、その記念祭が済んだならば、私に力を下さい。私の為に神様働いて下さいという条件があった事に気付かせて頂きました。
 御用をするというても、お供えをするというても、おかげば頂かんならんからという、言わば今日言うおかげ信心では、そう言う事にしかなり兼ねないのです。一生懸命御用します。御用すりゃ助かると昔から聞いてきた。そこで真心一生懸命の御用をさせて貰うて、記念祭を境に、今度はこちらの方へ神様が働いて下さる番だと言う様な、考え方が間違っておった。さぁそれから無条件。もう本当に瞬く間でした。発送しておった所から、金を送って来る。ぐずぐずしておった所から話がまとまると。
 もうそれこそ瞬く間に10ヶ月でどうにも出来なかったおかげが、思う通りのおかげを頂いた話を今日は善導寺でさせて頂きました。皆さんが一生懸命御用頂いておるけれども、それに条件があってはならない。無条件だそれが信心なんだ。その信心がいわば御造営即、信心造営ということになるのだ。まず御造営よりもその信心を造営しなければならない。おかげを頂かなきゃ、もう御造営がね成就さえすれば良い、出来上がりさえすれば良い。このお広前が例えば成就ね建立された時にですね。
 この御造営期間にこういう信心を分からせて頂いたと言う事になる時に、初めて信心が出来たということになるのです。それこそ出来た暁にそれこそ感動いっぱい。むせぶ様な喜びを神様が与えて下さる。喜びは自分で喜ぼうとして喜べるのではない。神様が与えて下さるのだと言う様なお話を今日はさせて頂いた。お互いもですね。いうならば信心が先に出来なければいけません。
 それが今教団全体に、一つの暗雲の様に黒い、真っ黒い雲の様にしておりますのは、皆がおかげ信心から一歩も前身していないところに、今日の教団の停滞があるのです。全信奉者の一人一人がです、いうならば教祖の信心をね、所謂自分の血に肉にさせて頂くと云う所に信心の焦点をおかなければいけません。そこから例えて申しますとです、歌の上手な人が風呂ででもこうやって、浪花節をうなったり歌を歌ったりしますと、ほりゃもう自分でも聞きほれるごたる声が出てきますよね。
 自分の声に聞き惚れる様な。自分が今思うておる事に、自分が行おうとしておる事にです。本当に自分ながら。どうしてこういう有難い心が使える様になったであろうかと、自分で自分の心の言わば音色に聞き取れれる様な耳を傾けさせて頂ける程しの。心の状態を作って行くと言う事が信心なので御座います。自分の今思うておる事がまぁ何と浅ましい事。何と汚い事何と心の小さい事であろうかと言う様な事ではいけません。
 そういう心に気付いたら、それを愈々大きくして行く事の為に美しゅうして行く事の為に、狭い心ならば広うして行く事の為の精進をさせて頂く。その手立てを日々の御理解によって、御教え下さるのですから、御教えが愈々本気で頂かれなければならないと言う事で御座います。今毎朝朝の御祈念を頂いてここの先生方が全部、3時半にここに集まります。そして朝の御理解のいうならば頂きどころと言った様なものを、一つの小さい文章にまとめて、それを私に聞かせて貰う。
 皆もそれを聞いて貰う。そして本当はそれも例えばおかげだけれども、今日の御理解のギリギリの所はここだよと言う訳であります。もう本当に改めてそういう研修をさせて頂く様になって、ここ十日間もう1週間位なるでしょうかね。本当にあのご理解の言わば再検討再吟味をさせて貰う。そして如何に今迄が眠り半分で頂いておったかと言う事が分かる。それをさせて頂く様になって、先生方が皆おかげで生き々として来る。
 今日も上野先生が御結界奉仕をさせて頂きながら、今日の焦点はどこであっただろうか。と云う事をしきりに思わせて頂いて、まとめようと思うた。そして朝ずっと控えておるところを読ませて頂いておって、一番に目についた所が今朝の私がご神前で頂いた、神様からのお知らせの、あれは俳句ですかね、川柳俳句でしょうね。そこの所が目に付いた。「道問えば、一時に動く田植えかな」ですかね、道問えば一時に何だったかな、動く田植え傘か。あんな句がありましたがどなたかの句に。
 今はもう機械ですからそんな事ありませんでしょうけども、昔はぱぁと10人も15人も並んでこうやってね田植をしております。そこでまぁ道を通っておる人が、まぁ一つの道を尋ねた。そしたらその十人なら十人そこで一緒にこうやって頭を上げたという情景を俳句にしたわけです。その句を頂くんです。今日は御理解にここには信心の稽古にくるところじゃという、あの御理解を頂きました。
 それでその歌とそのここには信心の稽古に来る焦点というものをです、お互いどこにおいておるかと言う事を、お話させて頂いたんです。ですから上野先生、はぁ今日の御理解のいうならば、親先生がここを分かってくれ、ここを分かれよと言われたのは、もうここだと思うた。一番に目に着いた所が、その句の所であった。御結界にこうして奉仕の前に、あの御神米を入れる箱がおいてございます。その箱にですもうそれこそ凄まじい大きなお勇みが付いたと。
 それを見た途端ね、はぁ私の今日思うておった事は本当であったなと思うた。ここへ下りて来てから、まだ胸がドキドキしよりますと言う様なあのお勇みであった。その事を私は例えば、愈々今年も最期の締めくくり、12月という月に入らせて頂いたが、この12月の信心の焦点はどこに置くか、と問われたならばどう答えるか。皆さんどう答えられるですか。今月は愈々締めくくりの月だから。
 どうぞ愈々最後の時だから、最後の月だから、愈々おかげを受けてね、新しい年がめでたく迎えられる様に、おかげを頂かんならんと言う事だけで是がいっぱいという人もあったろう。けれども何というてもです、信心が分かって来ると言う事はね、先程から申します様に、自分の事でもない事にです、それが人が助かる事の為に。又はそれが教会の事の為に、教団の発展の為に、一修行させて頂いてでもそれを祈らせて頂くと言う様な心が是で出来て来る時に。
 自分で自分の心に聞き取れる様な見とれる様な心の状態とはそういう時です。自分で自分の事を願っておる時などは、そんなに有り難くなれるもんではありませんです。段々信心の心が広がって育って来て。言わば赤の他人の誰彼の事でも、言うならば教会全体の大発展を心から祈らせて頂いておる自分にふっと気がついた時にです、自分の心も大きくなったもんだなぁ。清らかになったもんだなぁと自分で自分の心が拝みたい様な時はそういう時なんだ。そういう心が育っていくのだ。
 今月12月はどこに焦点がおかれてあるか。なんというても16日に奉仕される所の報徳祭の事である。冬の大祭である、九州の大恩人といわれる四神金光様のご大祭である。合楽教会の大恩人である所の三代金光様の御大祭である。そのお徳に報いるためのご大祭である。この12月の月に入ったが最期、そのご大祭の事を祈らせて貰う。皆さん今月の信心の焦点はどこですか。
 16日のご大祭にありますと一時に傘が、田植がさが動くように、皆の心がその位に大祭と言う事に一つの思いに掛けられるならばです、それは神様の願いと私共の願いが一つになった時に、初めておどろく様な胸がときめく様な、お勇みを頂いたというのですから。間違いがない事であります。ご大祭にはどうぞ今からお繰り合せをお願いをして、どうでも家族中でお参りが出来ます様に。隣近所にもあれが示現活動が出来て、一人でも多くの人をお導きが出来ます様に。
 どうぞ三代金光様、四神二代金光様のお喜び頂ける様なご大祭を奉仕させて頂ける様なという祈りを今月は持たせて頂けれる事にね。例えば今日こうやってお参りなっておられる、百名なら百名の皆さんがそういう願いを一つにして、祈れれる信心を私は育てて行きたいと思うので御座います。教会の事は先生がもうしなさるとじゃから。というのではなくて、そういう祈りに一段進んでいけれる。
 高まっていけれると言う事が信心なのです。それが取りも直さず体質が変わっていっておりますから、自分の事もさる事ながら、それこそあの人も助かって貰わなければ、この人にもと、人の事が祈らなければおられないという程しの心が高まって来る。そういう心の高まりを、神様がお喜び下さる。神様が喜んで下さる、神様の願いであり私共の願いである。その願いと願いが一つになった時に、神様がおうそうだ其処だよと言うて下さるのが私はあのお勇みだと思です。
 今日はねそのお勇みがただの事じゃないと思うた。ここへ下りて来てからもう、何十分後でしたけども、先生まだその胸ががドキドキしよると上野先生はいうております。そんなにも間違いない事ですから、ご大祭の事を祈らせて貰おう。ご大祭には、本当に一人でも多くの示現活動が出来る様な事を、今から願わせて頂こう。そういう信心に、出来る出来んは別として、そういう稽古をさせて頂くうちにです、本当の信心が分って来るのじゃないでしょうか。愈々十日には御本部の報徳祭を拝ませて貰います。
 そして16日にはここのご大祭。13日は親教会の秋の教祖大祭と言う事で御座います。そういうね信心に打ち込んでそういう信心に、例えば有り難いというものが頂けて来たら、私は今年は先ずは間違いのない有り難い年として締めくくりが出来る様な、おかげは間違いないと私は確信する。どうぞそういう信心、いわゆる今日は信心の体質改善と言う事も色々御座いましょう。けれども自分のおかげ信心から、おかげを頂くと言う事から、信心を頂くという信心にならせて頂くと言う事を聞いて頂きました。
   どうぞ。